2015年1月28日水曜日

Top-down or Bottom-up、未来から?過去から?

息子高校2年生、もう受験時期なので、私もゼミの説明会などに行くなど、日頃の私のイメージとは似つかわしくない事もしています(笑)
息子は自分の進む道に迷いはなく、新学期からは英語を4教科取るのだとか。

英語の指導方法について、パンフレットに「うちはTop-down方式です。英語は単語をひとつひとつ覚えていくより、全体の文章や文脈を最初に、わからなくても何を言っているのか理解しようとすることで、判断力や読解力が高まり、細かいパーツを覚えようとするモチベーションにも繋がる」との説明書きがありました。
ふ〜ん、なるほど。

そうそう、物事には、Top-down方式と、Bottom-up方式があるのですよね。

 先に全体を見て、よくわからない部分があってもわかるところだけ受け取り、あとは全体をぼんやり眺めるようなやり方が Top-down。
私はほとんどこちらを採用しています。
ヨガのティーチングに於いても、「こうなんですよ」というのを最初からシンプルにお伝えし、あとは年間通してその全体像に基づいて 、Bottom-upしていく。
いつもホワイトボードに書いている、陰陽の概念ともぴったりリンクします。

自分自身の気付きから答えを導き出して行く方法だから、理解が早く自由さがある。
記憶力、モチベーション、エネルギー、時間の限られている大人は、先にちまちまパーツを覚えても全体が繋がらなかったり、そこで嫌になってしまったりしますよね。
そういう段階が好きな人もいますが、私は、「あ、先に進む気はないのね」って判断してしまいます。 ひとつひとつ覚えたり、先を見せて貰えないようなスタイルの学びは気付いたら何処にいるのかわからないみたいなことになりかねませんし。

なんとなくですが、 お金儲け主義、組織への囲い込み主義のスタイルは、Bottom-up方式を採用しているところが殆どのように感じます。 
そして日本人はそういうシステムを、ちゃんとしてる、って思いやすいのね。
でも頭のいい人、実力のある人には不公平になるシステムです。 
トップを理解できる頭があれば、パーツをどこまで学ぶかなんてあとは趣味というか、個人的な時間やお金の掛け方の問題だもの。
あとは誠実さとか真摯さとか。
そして自分なりに深めていく過程はワクワクを持って行なえますし、たとえ失敗しても大きくぶれないし.....

私はヨガ指導も学びも、ライフスタイルも人付き合いも大体こういう考え方ですので、思考も、Bottom-Up方式だけの人とは先ず合わない(笑) 
Topが見えてない人と話しても埒があかない気がするのです。
だから外人って言われます(笑)

言うなれば、先にボールを「ここ」という場所に投げてしまって、それを取りに行く、みたいな。
人生は選択の連続ですが、私の場合は、「将来こうなっていたいから今こうする」という思考が大半のようです。

Bottom-upの人は、ボールを離さず、ぽんぽんと一歩一歩ドリブルしながら前に進んで行くような感じでしょうか。過去からのものを積み重ねた上での選択、「こういうふうに歩んで来たから次はこう」みたいな。
どちらにしても、自分の足で歩いていくことは同じ。


これはね、子育てなんかは絶対そうしないといけないんじゃないかなって思います。
親が先に遠くにボールを投げて、子供に走って追わせるみたいなのってなんか違うと思う。
教育と子育て(というか1人の人との 関わり)って全然違う事だもの。
時には地面に跳ね返って予期せぬ方向にボールが飛んで行ってしまって慌てて取りに行くみたいなことも親にとっては絶対必要だし。

でも、「この子を愛している」とか「この子を守っていくんだ」みたいなところがTopだとしたら、やはりTop-downなのかな....
あ、一目惚れとかもそうですね(微笑)

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久しぶりに息子と食事に行った際、「これ好きだったよね」と私の好きなものを注文しておいてくれることにほんのりとした幸せ感を覚えます。
これが出来るのは、たぶんこの人だけ。 巣立つまでもう少し。

そういえば私の事をそういうふうに知っている人っていないな〜と気付き、それはきっとBottom-upでしか育まれないことなんだろうなと思ったりするのでした。



2015年1月21日水曜日

冬のてしごと「精麻の神縄創りWS」

大寒で、土用。
でもこれが過ぎれば立春、少しずつ春の気配を感じています。
確か去年もそうだったのだけど、気持ちの上で春を向かえる準備、大事だな〜って思って、企画した「新月の日の精麻で創る神縄飾りWS」、講師のYas先生の、微生物、植物ネットワークから、日本古来の文化、見えない世界(ってスピリチュアル云々ではなく)のお話、いつもながら面白く聞かせて頂きました。

 

女性には特に、グラウンディングは大事です。根っこからのエネルギーと切り離されてしまったらすぐに枯れてしまう。(男性は女性と繋がらないと枯れちゃうの)
というよりグラウンディングなくしては、神様も宇宙もないない、って感じかな。


口に十の叶(可能)結び(産霊)を結ぼうとしています。
産霊(むすひ)は、万物を生み出す力の働き、生命力そのもの、プラーナって言ってもいいのかも。 ※呼吸のWSの時お話しました。
ヨガの語源は、yuj(ユジュ)=繋ぐとも結ぶとも訳せます。

麻は繊維の空洞が多いので、微生物がたくさん育まれやすいそうです。
私達も自分の命単体で生きているわけじゃなく、一緒に生きている常在菌で、腸内環境や性格、脳内で作られるホルモン、健康状態、匂い、などが大きく変わってしまいます。
醗酵か腐敗かにも通じる、微生物との共生、自分がたくさんの生命を宿し生きていると考えたら、またちょっと毎日の発想が変るかしら?


精麻は固いのだけど、強く触るとボロボロに解れてしまいます。

柔らかくその生えていた方向そのままに撫でるように触ると繊維が整い、柔らかく、黄金の輝きが増していきます。
人の身体も心も一緒ですね。

手を動かしているとすっと心が落ち着いて、頭がクリアになり姿勢も整うし、冬の手仕事はいいですね。
お茶飲んだり、甘いもの食べたりして。


 ぜんざいなのかおしるこなのかよくわかりませんが、大納言をストーブでじっくりことこと煮込んで、ココナッツオイルとココナッツハニーでこくをつけました。
白玉粉は、絹ごしのお豆腐だけで練ったもの。
さっとお出しできる美味しいもののレパートリーを増やしたいです。



 こういうのって、はまる人ははまるけど、1人でやると念が籠ってしまいやすいから、みんなでやったほうがいいんですよね。
念と祈りは違うし(笑)ってYasさんも言ってました。

女性の念程怖いものはないなって、よく感じる私です(笑)

私達は古き良きムラ社会の価値観には戻れないのかもしれないけれど、理屈抜きに楽しい時間でしたよ。
また開催したいな。

WSで創った写真の神飾りは、この日都内からわざわざ会いに来てくれた大切な友人にプレゼントしました。
自宅用には別に作って玄関に吊るして、春を迎える準備完了。
あとは自分かな。ファスティングかリバークレンズをしようかな。

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予定している今後のWS、イベントは、
1/25(日)北インド古典音楽Talk&Live"en" vol.2

出演者のマッハさんは、この後しばらく演奏活動を休止するそうなので、貴重な機会です。

1/31(土)Sound Healing×Yoga vol.4 

演奏のSound8は、このWSのためにわざわざ曲作りから準備してくれています。
告知には難しっぽく書いているかもしれないけど、Pranic Yoga全体系をわかりやすくまとめたWSです。
初めての方も、レギュラークラス参加者も気軽にご参加下さい。

春になったら自分がどんな感じなのかもまだよく掴めないのですが(なんだか周りもみんなそうみたい)、大きな転換ポイントが近づいているのかな?
自分と繋がり、周りのものを結び合い素直な心で進んでいくだけです。
ナマステ



2015年1月16日金曜日

失感情症(アレキシサイミヤ)、失体感症(アレキシソミヤ)

ヨガをやってみようかなと思う時、人それぞれに様々な理由がおありかと思います。
クラスに最初にいらっしゃる方も、何故ヨガをやろうとしているのかをお話し下さる事が多く、やはり相互理解って大事だなと思いながら、クラスの途中でも、皆さんがフィードバックする時間を大切にしています。

今日はちょっとヨガインストラクターというより、ヨーガ療法士の目線でお伝えしていこうと思います。

フィジカル(肉体的な)理由、メンタル(精神的な)理由 に関わらず、ヨガを選択される方は、(というより現代人はほぼ全員が)本人が自覚している居ないに関わらず、大抵この二つの傾向が当てはまるように思います。

失感情症(アレキシサイミヤ)、失体感症(アレキシソミヤ)

二つとも心身症との関連が深く(というより、ヨーガ療法士目線だと原因は100%ここに集約されます)、先入観無く 見抜く意識がとても重要になります。

※「アレキシサイミア(失感情症)」
「自分自身の感情を表現する言葉を見つけるのが難しい」
そういう性格傾向の事、もしくはそういう状況にあるときの心理傾向。

心身症を持つ人の重要な病態のひとつ。

アレキシサイミアは「感情の言語化障害」である。

”感情”について話すことが出来ない為、
行動を起こすこと(黙り込む)で、
精神作業を回避している。

何らかのストレス(緊張)を感じた際、
それをうまく捉えられない為、
「陰性感情」を漠然と抱える事になる。そして「無力感」に苛まれる。

普段は考える必要もないほど自然に他人と接せられていても、依存相手には【合わせる】と言う形で、自己評価・正解・自分の気持ちなど、【自分】を預けてしまっているので、余計に自分のその時に感じている気持ちが分からなくなってしまう。
「衝突を避けた、関係の継続寄りな思考方法」であるが故に、周囲の感情活動をも制限してしまう場合がある。

※「失体感症(アレキシソミヤ)」

「 自分の身体の状態を無視して過労に陥りやすい、痛みや不調を我慢し過ぎる、身体感覚への気づきが鈍い傾向」

 失体感症は、体の感覚が脳へ伝わらないために引き起こされる症状。

疲労や空腹感を感じないなどの各種の症状がある。

脳が体の状態を 正確に把握する事が出来ないため、体に大きな負担をかける傾向。

自律神経が正常な働きをしなくなり、その結果として体の内臓機能が低下して、疾患を引き起こすことにもなりかねない。

その原因としては、自律神経失調症や、過剰なストレスなどによって体が発する警告サインを無意識のうちに抑え込んでしまい、自分の体調の変化に気づくことができなくなってしまったということが挙げられる。
また、自分の身体の不調を感じることへの不安感から、神経系の伝達をブロックし、敢えて負荷をかけることで、「大丈夫」と思い込もうとする傾向が過剰適応した結果であるとも言える。

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失感情症の場合は、こちらが感情をわかりやすく表現してみせる事と、「嬉しいですね」「ちょっと怖いですね」「少し緊張しますか?」など、感情を汲んで表現出来るよう誘導 する言葉掛けをする、などを気をつけますが、依存、受動の形が出来てしまったり、愛着の感情が芽生えると、衝突を避けるために、さらに受動的傾向が強くなり、感情的なフリーズがおこってしまいやすくなります。

 ですので、以前はそのような応対をしていましたが、最近は理解しつつ、敢えて体感に関することのみ、「肩に力入っていませんか?」「呼吸は今吸っていますか、吐いていますか?」「安定するためにもっと足を使ってみましょう」「肩をこちら側に回すと背骨がこうなります、こちら側に回すとみぞおちがこうなって呼吸がこうなります」など、本人が日常しているであろう姿勢と意識状態、ヨガでの正しい身体の使い方とその時の意識状態を体感して貰って、自分の感じる事に従って、自分で選択出来る、自分で決定出来る、それは誰にも迷惑をかけないし、健全な事で、本人の快適さや、健康、良い気分は、周りにも善い影響をもたらすんですよ、とお伝えします。
その誘導に関して、様々な技術、知識、経験を積み重ねてきたつもりです。

このヨガの先生には何でも話せる、と思って頂くことはとても光栄なのですが、 あくまで私の仕事としてのスタンスで、私はこういう視点でクラスの中で言葉を発しています。

これは通常クラス、プライベート、運動量の多い少ないに関わらず同じ視点です。
生徒さんが、自分で様々なことに気付き、楽しみながら、そして完璧を求めず「そんなもんだ」とリラックスして、ヨガ、というより自分自身に向き合っている姿を見させて頂く事が私にとっては最大の自分の日々の活動の成果のような気がします。 

失感情症、失体感症は、多かれ少なかれ、誰しもに当てはまる事です。知覚する事で自分のその優しさや愛情、頑張りがよりうまく機能するといいですね。
ナマステ






裸の王様

最近オープンした、湘南蔦屋書店T-Site、先日とおりがかりにふらっと立ち寄ってみました。偶然スタッフとしてお仕事中の知り合いの方に声をかけて頂き、すぐに右も左もわからなくなる方向音痴の私に、フロアやショップの案内をしてくださって、大変助かりました(^^;)
雨の日はここで何時間でも過ごせそうな、アート、カルチャー、ライフスタイルの複合施設。
本を手に取り、その本の中の世界からすぐにリアルへ繋がれるような造り。
料理本コーナーの脇には食材やオーガニックカフェ、スイーツ屋さん、料理教室、作家さんの器やリネン類、旅の本コーナーの脇にはアウトドアグッズ、マウンテンバイク、 他にもオーガニックコスメ、アクセサリーや服、子供向けの知能玩具、パズルやゲーム、映画や音楽、広々とした居心地の良さそうなカフェラウンジなどがあり、テラスも充実、湘南らしいゆったりとした面白い設計でした。


なんとなく手に取った絵本はアンデルセンの「裸の王様」。

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あるところに、大変着飾るのが大好きな王様がいました。
毎日毎日服を何度も着替えて鏡を見たり、人々に「素敵ですね」「素晴らしいですね」と褒めて貰うことばかりを考えていました。
あるとき、詐欺師が王様のお城のある街へやってきて、自分たちは特別な服を仕立てられる仕立て屋だと、それは、とてもとても美しいのだけれど、賢い者にしか見る事の出来ない、馬鹿な者にはまったく目に映らない特別な布で出来ているのだ、と言って回りました。
王様もその噂を聞きつけて、その詐欺師たちを城に呼び寄せ、自分こそがその特別な服にふさわしい、お金はいくらでも出すから、その服を作ってくれと頼みました。

王様の家来が、進み具合はどうかと仕立て屋を訪ね、仕立て屋は「ほら、素晴らしいでしょう?この模様、この手触り、この風合い」と嘯きますが、その賢い家来も、自分が馬鹿だと思われたくないために、まったく見えもしない在りもしないその布を褒めそやして帰っていきます。

そしてとうとう服が完成したと、仕立て屋がお城へ参上します。
王様を始め、誰1人その服が見えません。
けれども、自分が馬鹿だと思われないために、全員その服があるかのように振る舞います。そして、とうとう裸のまま、街へ出てパレードをするのでした。

事情を知っている街の人も、 口々に「素晴らしい服だ」「王様ばんざい」と褒め讃えます。誰も、自分にはその服が見えないとは言えません。
けれども1人の子供が「王様は裸だよ!」と指を指して言います。
王様は裸....王様は裸.....
そしてあっというまに皆が「王様は裸だ」と笑い出すのです。
王様は恥ずかしくなりましたが、ただただひっこみがつかず、パレードを続けるのでした。

 http://www.alz.jp/221b/aozora/the_emperors_new_suit.html

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というお話。

どの絵本の挿絵も、お腹の緩んだかっこ悪い貧弱そうな王様の姿が描かれています。

別に裸でいいじゃない、と私は思うのです。
その裸がカッコ良かったら。

でもそうじゃないって思ってしまっているから、みんな見えない服を着たがる。
みんなで見えないその素敵な服に 意識を奪われる。
もしかしたら見えないのは自分だけなのかなって、思いたくないから、もしくは本物の素晴らしい服は手に入れられないと思っているから、素敵な見えない服を頭の中で創り出す。そう、たぶんそれがいつも私がもやっとするスピリチュアルとか美味しい話とか、不安感とか劣等感とかを煽るような、もしくはそれを安心させるような何かそんなところ。

ヨガは、「王様は裸だよ〜」って笑うヘルシーさ、「裸でいいじゃん」って自分を鍛える誠実さ、 「裸だよ」と真実を指摘する勇気、率直さ、そんなところが本質かな。
自分で自分にたくさん着せている服も脱いでいって、世の中に溢れてるたくさんの欺瞞も見抜いていって、その清々しい身軽さや心地よさで生きていきたい。
それしかできない(笑)

私の裸の王様にはこのマントラを。
Om Asato Maa Sad-Gamaya  Om 虚構から真実へ
Tamaso Maa Jyotir-Gamaya  無知な暗闇から智慧の光明へ
Mrtyor-Maa Amrtam Gamaya  滅び行くものから永遠の不滅なるものへ 
               私をお導き下さい
Om Shaantih Shaantih Shaantih


2015年1月3日土曜日

2015年に共通するメッセージ






あけましておめでとうございます。
2015年はどんな一年になりそうですか?
湘南では元旦から雪が降り、いつもと違う趣でした。
なんとなくこれからますます予測不能な、予測なんて無意味な時空間になっていくんだなと思いました。

冬至が明けてから、頻繁に見聞きするフレーズは、
「いいとか悪いとかない」「善悪の二極を越えて」「正しい、間違っているとかは存在しない」などの、今までの価値基準をさ〜っと平らに慣らすような考え方。
ヨガの哲学も陰陽思想も、本当はずっとこの一点からぶれずに伝わって来たのだけれど、いいとか悪いとかの価値基準って、教えられたり、守らないと批判されたり、心が傷ついたりして、なかなかまっすぐ表に出て来れなかったのですよね。

いいとか悪いとかを強く持っている人程、昔は素晴らしく見えたんだと思うの。
ミクロからマクロまで、いいとか悪いとかを越えた広い視点を持っている人の考えや言葉って、伝わりにくく、逆に何か一点に集中したような考え方やメッセージ(実はエゴだったりします)というのは、わっと人の心を掻き立てる。(私はそれに敏感で、すぐに怖いなとか、反発する反応が出てしまう。でも上手く説明出来なくて周りを困らせてしまったり)

例えば、すごく目の細かい上質な繊維って触っていても触っている感じがしないけれど、粗いものは触ってすぐに感じる事が出来るというような。

私達はずっとずっと善い悪いの基準に苦しんできたのではないかな。
もし善いも悪いもなければ、自分に対して、自分の気持ちや状況を恥ずかしいと思うこともきっとなくなるのではないでしょうか。
「いいのかな?悪いのかな?」って答えを出す事に多大なエネルギーを使って、結局行動にまで辿り着かないということ、こうすることがいいだろうと思って、本当に感じていることから自分を分離させたところにエネルギーを使って消耗する。
それで怒ったり、悲しんだり......

大晦日に母に会って、たくさん話をしました。
私の中でいい悪いってジャッジする人が居なくなっているから、とても正直になれたと思う。母も私がジャッジしていないのを感じて、初めて聞くようなことをたくさん出して来た。話していて、やっぱりいい悪いの価値基準や思い込み、コミュニケーションの分断から、私が育った家庭の、愛や幸せの種がたくさんたくさん 摘み取られてみんな辛い想いをしたなってことをつくづく思いました。

昔は、今よりもっともっと良い悪いの価値基準がタイトだったわけで、それを子供の私が変だなって思って見ていて、そして今の私を息子やもっと新しい世代の子供たちは、まだまだ縛られてるなって目で見ているんだと思う。
子供はただ地球に生まれて来て、いろんなことを経験したいだけ。
失敗もいい悪いもなく、その経験によって導かれて成長していくのだから、私達はものごとの善し悪しを押し付けるのではなく、身体と心の上手な扱い方を必要な時に教えてあげられればいいだけなんだなって。
子供になにかを教えようとするより、ただ話をたくさん聞いてあげようと思います。 これからどんどん意識集合体の価値基準は変わってくるのだから、その方が絶対面白い。

私は人前で喋るのが仕事だから、つい自分が率先して何か喋らないといけないって思ってしまったり。無理して喋っているからそれに対しての意見を受け入れられなかったりしてたなって反省もしました。

善悪の価値基準、二極の分離から解放されれば、不思議と自分自分って守る必要もなくなるんだなっていうのが年が明けてからの私の感じている事。
それでもまだうっかり出てしまう癖は残っているから、旧暦のお正月くらいまでにいろいろ見直して行きたいな。

二極を繋ぐキーポイント、それにみんなが具体的に気付いていくような一年なのかもしれません。ますます自由に自由自在に、好きな場所で好きな人と好きな事が出来ますように。
2015年、今年もどうぞ宜しくお願い致します。