2014年1月31日金曜日

月のリズム、太陽のリズム、7の公倍数

あけましておめでとうございます。
旧暦正月です。

旧暦とは、改暦のあった明治5年12月2日(1872年12月31日)まで使われていた改訂版天保暦のことです。陰暦とも呼ばれていたりします。
現行のグレゴリオ暦より一ヶ月遅れなのは、改暦翌日の12月3日をもって明治6年(1873年)1月1日とされたから。
改暦は明治5年11月9日(1872年12月9日)に布告し、翌月に実施されるというかなり荒っぽい当時の政府の方針が見て取れます。
激動の時代と言われている、幕末から終戦に至るまで、特にこの時代の方々は本当に大変だったでしょうね。
この年の急な実施は明治維新後、明治政府が月給制度にした官吏の給与を(旧暦のままでは明治6年は閏6月があるので)年13回支払うのを防ぐためだったと言われています。
政府というのはこういうものなのですね。
国の方針も政策も、日付までもころころ変えるわけだから、それにあまり右往左往させられたくないですね、と関心を持たれなくなるのも当然の流れでした。

本来時間の流れという概念は、3次元の世界での宇宙的なものです。
例えばマヤ歴、天体を観測し何十万年という単位で非常に精密に作られています。
 ※一周期を260日(13の係数と20の日の組み合わせ)とするツォルキンと呼ばれるカレンダーで、宗教的、儀礼的な役割を果たしていた。もう1つは、1年(1トゥン)を360日(20日の18ヶ月)とし、その年の最後に5日のワイエブ月(ウェヤブ)を追加することで365日とする、ハアブと呼ばれる太陽暦のカレンダーである。 ワイエブ月を除いたハアブ暦(360日)とツォルキン暦(260日)の組み合わせが約13年(13トゥン)ごとに一巡する。これをベースとして4サイクルの約52年を周期とする。
Wikipediaより

東アジアで使われているものは、主に太陰暦と呼ばれ、月の満ち欠けの周期が基準になっているもの。当然潮の満ち引きは、月の満ち欠けと関係しているので、海に囲まれた私達日本人や、海洋民族と呼ばれる人達には、こちらのリズム(月の公転、自転のリズム=潮汐リズム)の方が馴染みが深いそうです。
基本的に海で暮らす生き物達は、昼夜関係なく、この潮汐リズムに影響を受けています。
脊椎動物の祖先は海で暮らしていたわけですから、私達人間には本来このリズムが備わっていると言えます。

逆に海から離れた山岳地帯で暮らす民族は、夜明けと日没、季節の移り変わりのサイクルである太陽のリズム(地球の自転のリズム)の方がより身体に馴染んでいるのだそうです。
そしてこのふたつには、1日約50分程のズレがあるのだとか。

さあ、なんだかもうよくわからなくなってきましたね。

ここで私がお伝えしたいのは、どんな暦にせよリズムにせよ、自分が合わせていくには完璧でないということ。
じゃあ、どうすれば?
と思われると思いますが、自分から発生する自然なリズムをもっと意識するようにしたらどうでしょう?
そうそう、呼吸ですよ。
その時に自分に一番しっくりくる長さの呼吸を意識的に行う、ことで、自分という自然のリズムが整うのではないでしょうか。

ところで、一週間は7日です。
365日がぴったり割れる数でもないのに、何故でしょうか?
そもそもは、ユダヤ人が月の中に7日ずつの節をつけたそうです。
神は7日で世界を創ったってやつですね。あ、7日目は安息日でしたが、7日のリズムというのはこの時に決められたのですね。
けれども、これはあながち適当でもなくて、森羅万象の硬組織には、この7日のリズムで日輪が刻まれているものが多いのだとか。
人間の歯や爪、髪の毛等にもあるそうです。
生き物は、7日周期で脱皮をしていると言えるのかもしれません。
女性の生理の周期は7の倍数の28日間、肌のターンオーバーの周期も同じです。
月のリズムの1ヶ月と同じです(正確には27.32日)。
赤ちゃんが生まれた7日目、お七夜、人が亡くなって7日目、初七日、7日が7回廻って49日、亡くなった方があの世へ旅立つのに必要な期間と言われています。
何か新しい習慣を身につける、自分を変えたいと思ったら、まず21日間続けなさい、と言われます。何かの行を行うのにも最低続けなくてはいけない単位として提示されます。
クンダリーニヨガには、7分、14分、21分、49分と瞑想時間がきっちり決められています。

私はクラス前に7の呼吸を必ず行います。
小学生から80代まで、生徒さんをいろいろ見て来ましたが、今まで一人も出来ない人はいませんでした。
肺の容積を日常の呼吸よりも大きく使い、横隔膜を動かすのに大体ちょうどいいかなと思っています。慣れて来るともっと長くすることは容易いですが、それだと日常では他に何も出来なくなってしまいます。
7秒くらいだと、その呼吸を維持しながら他の事も行える範囲です。

まあ、良く考えると秒、とか分、も、24時間を割っていったものですから人のリズムと正確に合うものでもないのかもしれませんが、大体それぐらい、という感じ。
世界中湘南でも、ハワイでも南アフリカでも、何所でも海の波が浜辺に寄せて引いていくリズムは同じなのだそうですが、まあそれと同じくらい、という感じでしょうか。
結局潮のリズムになりますね(笑)

ますます自分のリズムを大切にして日々過ごせるようにしたいと思います。
具体的にはきちんとメリハリをつけるということかな。
そして他のいろんなリズムとも同調出来たら良いなと思います。



2014年1月28日火曜日

マウナ(沈黙の行)の1日


先日16歳になった息子の、合唱コンクール後の一コマ。
(先生もピースして下さってありがとうございます^^)

自分が高校生の頃は、こんな屈託なく学校生活を楽しめるような状況ではなかったので、私は息子を一人で育ててはいますが、彼が友達や先生を大切に思う気持ちをそのまま素直に感じながら青春をエンジョイしている姿を誇りに思っています。

週末は、ヨガのクラスをすべてお休みさせて頂き、2日間、気功と瞑想のWSに参加してきました。

気功をしている時は、頭の中でヨガのときに作る姿勢と混同しないように考えながらあれこれ試させて頂いている感じです。
その中で、まあ手前味噌ですが、プラニックヨガで間違いないという自信のようなものもふつふつと湧いて来ます。ですが、まあ、あまり勘違いのないようにしたいものです。

また、気功の奥深さも純粋に楽しんでいて、気が整うと、身体が調律された感じがしてとても心地良いのです。実際逆立ちのようなバランスを行うと(気功ではそんなことしませんが、私が休憩の合間等に勝手に)、ビシっと一点が定まっていて、でも何所にも何も力を使っていない状態です。

とまあ、とても良い感じに身体を調律して、翌日は丸一日朝10時から夜7時まで沈黙の行(Mouna -マウナमौन )の中の瞑想でした。
とは言え、ノンストップではなく、計9回、坐り方を変えたり、間に立禅(站椿功)、歩行瞑想、マインドフルネスイーティング、観音気功、シャバーサナなどを混ぜながらでしたが、とにかく言葉を発さない、文字にも触れない、これは言われなかったけれど、皆さん表情も顔に出さず、アイコンタクトのような事も一切しない、周りとコミュニケーションをしない、が徹底していました。
ヴィパーサーナは経験ありますし、マウナも別段苦しい事ではなく却って快適なくらいに思っていたので、楽しむつもりでいたのですが、これが予想を大きく覆してかなりつらいものでした。

30名近くの参加者が一室に集まって無言で自分のことに集中している、状況は、ヨガ教師なのでまったく日常の範疇と言えるのですが、最初、全員で円を成して坐り、皆が一つの方向(円の中心)に向いていた時や、向かい合わせで坐ったりする時にはまったく感じなかった圧迫感を、全員が円を背にして壁に向かって瞑想をするフォーメーションになった時に、耐えられない程感じてしまいました。
目を閉じているし、それほど周りを気にする状況でもないので、自分の事に集中していればよいのですが、周りに人がいる事も皆が別の方向を向いている状況も知りながら坐っています。

段々圧迫感が増してきて、薄目を開けたら、真っ白い壁しか目に入って来なくて(当たり前)却って焦りました。
家では慣れ親しんだヨガマットの上で、 近くに植物をたくさん置いてある中で、そして完全に一人の状況で坐るので、何とも言えないざわざわ感が発生。

肘を広げたら隣の人にすぐ触れるほど近くに人の気配を感じるのに、その人には触れてはいけないし、その人の気にも触れてはいけない状況です。
なんとなく、満員電車の中で、自分がドアに張り付いて駅に着くまで黙って耐えているような感覚に襲われてしまいました。
とりあえずじゃあ満員電車の中と同じようにしてやり過ごそうと、姿勢を屈めて呼吸を浅くしていたら、先生が真後ろに立っていて、仙骨から頭頂までエネルギーを伸ばされました。お陰でちょっと助かりました(さすが先生)。

歩行瞑想の時も、皆静かに、誰とも目を合わさず、自分が何を思っている、考えているを表に出さず、誰とも触れず、本当に只静かに不規則に歩き回っている様子が、都会の群衆の中に紛れてしまった感に襲われて、だんだん言いようのない孤独感に押しつぶされそうになりました。

これは正しくない認識ですが、私が感じたのは、狭い空間で、自分が既に関わっているつもりの人達がいるのに、無視し合っている冷たくて不自然な状況でした。
That's exactly Tokyo、みたいにも思ってしまった。

実際瞑想終了後のフィードバックでは、そんなことを感じていたのは私だけで、後の方々はそれぞれ至福感を感じていたり、身体の痛みと向き合っていたり、いろいろだったようでした。

自分が普段鎌倉など海の近くでわりと人と親密に、広々とした空間を感じながら生きさせてもらっているからかな、とも最初は考えていたのですが、じっくり考えてみると、これは自分の育った環境のトラウマのようなものでした。

私はたぶんその時に、自分でもおかしいと感じながら、いろいろな感情を我慢して、どっちの味方なの、と責められるのが嫌で、父にも母にも特に触れないようにしていた子供時代を過ごして、心から安心して笑う事も甘える事も信頼して相談する事もない家族との付き合いだったように思います。

一方ではすごく活発で、いつも何かに好奇心を持っていて、集中すると周りの状況なんてどうでもよくなってしまうような、あっけらかんとした子供でした。
中学生でやっと両親が離婚したとき、悲しい気持ちもありましたが、解放感の方が強かったのを覚えています。
妹はよく体調を崩していましたが、私は一切病気もせず勉強もできて、しっかりものと扱われて、またそれに応えてもいたので、強い子だったなと改めて自分でも思います。
新聞配達して、家計を助けたりして。

なので、今、それに似た状況はすぐに耐えられなくなってしまいます。
人のよそよそしさ、感情を別のものにすり替えて外に見せる感じ、正直なコミュニケーションのない不自然さ、見て見ないふり、自分一人が頑張らないといけないみたいな状況(それも認識違いなんですけど)、金銭的な不透明さ、不安定さ、そういったもの達です。
知らない人からは変に思われる行動も多々あるでしょうね。

とてもつらく感じて、途中少し泣きましたが(笑)この瞑想をやって良かった。
身体が丈夫だから頑張れるっていうことに今まで頼って来たけれど、歳を重ねていったらそうもいかなくなるでしょうから。

一緒に過ごした皆さんは私の家族のよそよそしさはなく、それぞれいろいろなことを抱えながら誠実に生きようとしている人達。
そうそう、これが今の私の状況。
あたたかい人達に囲まれて、自由に生きたいように生きている。
そんな風に過去の認識を新たにすることが瞑想の意義です。


まずは、子供時代の自分によく頑張ったね、よく生き延びて来たねと充分に褒めて愛情を注いであげたい。
ゆっくり、でも確実に自分で自分をもっと幸せにしてあげるのです。


そしてやっぱりヨガをしていないと、長時間坐ることってなかなか出来ないのだと痛感致しました。やってて良かった、ヨガ。毎日思っているけど、また強く感じました。
身体の強さ、しなやかさはこれからもさらに大切にしていきたいですね。
Namaste









2014年1月7日火曜日

1年の始まりは「足」から

新年明けのクラスをひととおり終え、やはり感じたのは「足」のこと。

今年の干支は馬だそうなので、ヴァタヤーナアサナ Vatayanasana(Horse Pose)↓
を紹介しました。

クラスの最初に私がこれのデモをしたとき、皆さんパッっと目を向けたのは私の足首。
関節系は痛みを連想しやすいですからね、一瞬で不安そうな空気が...(笑)

簡易ポーズは足首を脚の付け根ではなく膝上に乗せ、片足のつま先でバランスをとるというもの(こちらのほうがたぶん難しいと感じられる方が多いと思います。画像が探せなかったのですけど、このポーズで佇んでいる仏像があります。)、もしくは膝をつくというもの。どのバージョンも足首を強化するアドヴァンスのポーズ。

足首を伸ばす事はたぶん日常の中で正座をよくされる方にはそれほど苦ではないはずですが、その際足を内反させてしまうと、弱い外側の靭帯を伸ばしてしまい、体全体のバランスをとり、支えている足首が緩く弱くなってしまいます。
このポーズに限らずですが、パドマアサナ(蓮華座)、ヴリクシャアサナⅡ、アルダパドマパシュチモッターナアサナ、マリーチアサナB、D、バラドヴァージャアサナⅡ、などすべて足の甲と足裏を同時に伸ばすようにして指を反らせ、足首が内反しないよう引き締めて行います。その形を保つために、足裏の筋力を必要とします。
(筋力が弱いとすぐに足裏を握ってしまい、体重が外にかかり足が内反していまいやすくなります、結果足首も弱くなって自身の体重を支えられなくなり、怪我や腰痛、姿勢の悪さ、血行の滞り、冷えなどの原因になります)
足首は球関節ではないので、まっすぐに力を加えて使わないと靭帯を痛めてしまったり、負荷で足の形が変形してしまったりしますね。
あまり強くぐるぐる回さないで下さい。

ヨガを教えはじめたとき、こんなにも自分が「足」「足」言うようになるとは思ってもいませんでした。最初の頃は「胸を開く」とかそんなことばかりやっていましたね(笑)
だけど、教えていくと、土台である足がいかに大事かがよくわかります。
足がしっかりしていなければ、足に意識が向いていなければ、ヨガのアサナは何をやっても上手くいかないのです。

足は脳からも心臓からも一番遠い場所にあるので、意識が届きにくく、血行が滞りやすい場所です。
脛まで冷えてやっと、「あ、足が冷えている」なんて気付くこともしょっちゅうではないですか?
今は家の中も外もバリアフリー、足下を気にしながら歩く事もないですし、硬い靴底で地面との感覚が鈍っています。
昔なら、もっと一歩歩くごとに「ここはぬかるんでいる」「ここは凸凹している」「ここはあたたかい」などの刺激を感じながら、足の裏の感覚に最大限に注意を払いながら生活していたでしょう。
砂利道を裸足で歩く事も当たり前だったと思うのですが、今の私達にはたぶん出来ないでしょう。それくらい足裏が弱くなっているのです。

先日江ノ島のクラス初めのあと、島内にあるこんな場所を歩きました。
思ったより激痛で叫びながら(笑)でしたが、歩いた後は血行も良くなり頭の中もすっとしたように感じました。
足裏は全身と繋がっています。
だから冷やしたり、窮屈な中に閉じ込めたりしてはいけないですよね。
足を上手に使える人は落ち着いていてグラウンディングが出来ているという事です。
他の隅々にも意識が届いていて、自分の様々なレイヤーを調和させて日々の中の選択が出来る人。
まずは、1年で一番寒いこの季節に冷やさないようにすることから始めたいですね。

私のお薦めは、遠赤外線効果のある竹布のレッグウォーマーと、 鉄火味噌です。
この二つは本当にすごい!冷えの悩みが一切解消されました。

鉄火味噌は、豆味噌、細かく刻んだごぼう、れんこん、人参、生姜など陽性の食品を、2〜3時間かけて鉄のフライパンで炒って水分を飛ばし、さらにカラカラになってサラサラになるまで火のエネルギーを加えたもの。
極陽性食品と言われ、栄養があり身体を温めるので、極寒の地に赴く軍隊でも使われていたのだとか。
(私は 自分で作らずSUGATAで買ってしまいました。
ここのもの→ http://ryujinume.com/
クラスでは裸足で歩き回るので、冷え対策にこれはかなり素晴らしいと実感中です。
足が冷えてしまうと、頭が回らずインストラクションが雑になってしまう気がするのです。

1年の始まりだからこそ、土台となる足下から充実させていきたいですね。
今年もどうぞ宜しくお願い致します。






2014年1月1日水曜日

あけましておめでとうございます

New Year waves a
Magic wand over this world,
And behold,
Everything is softer and more beautiful.
Have A Happy New Year 2014.

 
夜明け前が一番寒く暗い、といいます。
何年かぶりに見た初日の出は、新月とともに昇ったまさに日と月が一緒に「明けた」特別な日の出でした。

明治5年に暦が現在のグレゴリオ暦に改暦されるまでは、新月から次の新月までを一ヶ月とする太陽太陰暦が使われていました。
(参考:日本の暦の歴史
だから、新年はいつも「明ける」だったのですね。
年賀状に「迎春」などと書かれているのが子供の頃は理解出来ず、これから一番寒くなるのに何故?などと思っていましたが、 冬至、小寒、大寒を終えて、立春前の新月がお正月だったのですから、本当は一ヶ月先だったのですね。
今はやっぱり慌ただしい。
冬至からクリスマスも入れてお正月まで10日足らず。
大掃除もお正月を向かえる準備も、今年はいつになくきちんとやりたいと思っていましたが、29日に仕事納めだった私にとっては精神的にあまり良く無かったみたいです。
1年分のストレスも感じてしまいました。
2013年はまったく休みを取れず、次から次へとやってくる自分の事以外の何かに奔走していたから、正直自分を無くすかと思った程それはそれは凄まじかった。
掃除というのは自分に関わる外の部分をきれいにしていく事で、実際本当に内面も片付けているのですね。 その分自分を観察するよい機会でもあり、気付いた事もとても多かったです。お掃除はヨガと同じ、そしてヨガはお掃除することと同じ。

ちなみに次の新月は1月31日です。
もう3日から仕事初めですが、旧正月に向かっていろんなものを整理してもっと手放せたらいいな。私はまだまだ変りたい、まだまだ余計なものをたくさん身につけているから。
「完璧」って何かを加える必要の無い状態の事ではなく、何も削るものが無い状態、なのですって。その考え方は、どこか禅の美学にも通じます。

日の出を拝んだ海岸にはどこから来たのか風船が流れ着いていて、二つが付いたり離れたり、波の上で遊んでいるようでした。日の出直前の雲の形は一瞬だけハート型に見えました。

みなさま、今年も良い1年にしていきたいですね。
どうぞ宜しくお願い致します。