2013年2月22日金曜日

身体にも心にも意識を向け過ぎない

ヨガを長く続けていると、身体のちょっとした変化にもとても敏感になります。
ヨガなんかやってるひとは(失礼)、一度は甚く身体を壊した経験があったりするので、余計に普段から気配りを絶やしません。

そして、徐々に身体と精神状態、すなわち精神状態=自分が何を考えているか、どんな風に思っているか、とは切っても切り離せないものなのだと気付き、自分が何を考えているかに気を配るようになります。

もちろんそういうことがヨガをやる意味であって、推奨されていますが、私には以前から少し気にかかる事があって。
生徒さんでも、ヨガの先生でも、またスピリチュアル関連の事に目覚めかけた人でも、考え過ぎ、意識を向け過ぎで、日常の動きや行動、思考、感情にロックがかかっているようになってしまうということです。

私達は残念ながら成長期ではないので、身体のピークは過ぎました。
後は衰えて行く一方。
注意を向ければ、調子の悪い、完璧でない要素はいくらでも見つかってしまいます。
女性は特にホルモンの状態によっても大きく左右されますから、100%の状態はいくら待っても訪れないものです。

例えばうちの息子は15歳、小さいときから健康で今も部活動で動きたいだけ動き、食べたいだけ食べ、寝たいだけ眠って、いつもすこぶる体調はいいです。
私も以前そうだったのでよくわかるのですが、だからこそ、ほんのちょっとの不調(喉が痛いとか、ささくれが出来たとか、胃が重たいとか)にとても気をとられ過ぎてしまうのです。不調に意識を向け過ぎてしまうから、不調にエネルギーを与えてしまい却って酷くなってしまうというパターン。
ボディワークをしょっちゅう受けないと気が済まなくなっている人、身体のパーツや状態の不調が気になって仕方ない人、同じように自分の心の状態を観察したり、意識をもっと高めたいとあれこれスピリチュアルな方面に向かっている人、すべて誰もが通る所なのですけれど、心なんて特にどんなに訓練したっていつも幸せを感じたままでいられるようにはなりませんし、そうなったところで周りとは随分ズレが生じてしまうのではと思います。

私はそれで、身体にも心にも意識を向け過ぎるのをやめ、呼吸(プラーナ)に意識を向ける事にしました。
呼吸は自分のものであるような、そうではないような、感じるけれど目には見えないもので、確かにあるけれどもそれ自体に性質はなく、良くも悪くもなく、無害であるのに得られるものは計り知れないというとても気楽につきあえるものです。
身体も心も、じっくりお付き合いするには多少なりとも緊張感がつきまとっていましたし、「悪い」という状態はとてもつらいものです。

そうして私のヨガは「プラニックヨガ」という形になっていったのですが、余分な力は自然に抜け、自分が持っていた身体へのコンプレックスや、プロ意識からくる完璧主義などもなりを潜め、同時に心もニュートラルでいられる時間が格段に増えました。
慢性的だった怪我も痛みも不調もなくなりました。
気で出来た身体は年齢によって衰えるどころか、どんどん洗練させ、鍛えていくことが出来ます。そういう自分に向き合うのはとっても楽しく変化も喜んで迎え入れられるものです。

ただし、世の中の殆どの人は、身体にも心にももっと意識を向けないといけない人ばかりだと思います。身体や心の不調を薬や快楽で誤摩化しながら、さらに酷使するようなライフスタイルから離れるためにきちんと自分に向き合う時間は必要です。
でもそこにはまり過ぎないでね、っていうおはなしでした。

OM

2013年2月19日火曜日

Saraswati Puja

立春も過ぎ、旧暦正月も明け、西洋の春のお祭りSt. Valentine's Dayも過ぎ、インドやヒンドゥの寺院、コミュニティではヴァサントパンチャミーという春の到来を祝う祭りが祝されました。
全世界中、大体2月の初めから半ばにかけて(ヴァサントパンチャミーはインド月のMaghの5日に祝われるので、年によっては1月の場合もあります)が「春」に切り替わる時期なんだなと思います。

そのヴァサントパンチャミーでは、サラスワティがお祝いされ、黄色の花を飾り、黄色の服を着て、黄色の食べ物を食べます。
サラスワティは、川の女神であることから、水を司る女神として、芸術、学問、音楽の神様として敬われていますが、春の女神でもあるのですね。
それはなんとなく嬉しいです。

この時期にふさわしい、インドの黄色いお粥「キチュリ」を作ってみました。
折しも高熱を出して寝込んでいたので、何も食べられず、舌も日本の伝統的な味を一切受け付けず、図らずも春の一大デトックスになりました。

スパイスたっぷりで身体をあたためる快復食として。

作り方
インディカ米
ムングダール(ムング豆)
バター
ターメリック、コリアンダー、クミンシード、カルダモン、クローブ、生姜、岩塩


お米と豆を洗ってザルにあけておく
生姜とスパイスをすべてバターで炒める
香りが出たら、お米と豆を加えさらに炒める
お米がすきとおってきたら、水を加え弱火で30分ほど炊く
岩塩で味を整える

そして、サラスワティマントラをアナーハタ音で唱えながら食して私のサラスワティプージャは終了。
黄色い服は残念ながら持っていなかったですね(笑)
(10代の時、恵比寿のデザイン学校に所属していたのですが、その時に「浅草橋ヤング用品店」というファッション系のTV番組が取材にきた事があって、前日HRを欠席していたからという理由で私が取材を受け、オンエアされたVTRで「色の白い子は黄色にあわないねー」とばっさり斬られていた想い出が未だトラウマです(笑))

よし、この春は黄色い服を堂々と着てみよう。
OM

2013年2月12日火曜日

巳年はクンダリーニ覚醒の時

旧暦のお正月が明けましたね。
おめでとうございます。
今年は日と月が同時に昇る新月がその日に当たった事もあり、何か特別な始まりを感じさせてくれます。
伊勢神宮(20年に一度)や出雲大社(60年に一度)では式年遷宮が行われる年です。
何か大きな節目なのでしょう。

昨年は60年に一度の 黒龍の年、自然界が未知なるエネルギーを現わす時、でしたね。
巳は諸説あるとは思いますが、ヨガをしている者としてはクンダリーニの覚醒を想起させます。クンダリーニは人間の仙骨のあたりに蛇が三回とぐろを巻いた形で眠っていると言われている、未知なる生命エネルギーです。シャクティとも呼ばれる女性性に例えられる莫大なエネルギーです。
ヨガの行法ではそれを目覚めさせ、背骨沿いにあるナディを伝って頭頂に引き上げ男性性的エネルギーとも例えられる精神エネルギーと融合させ己の真の存在を覚醒させます。
"Hatha Yoga Pradipika"

クンダリーニヨガという行法がありますが、それらはまさにそれを目的としたもので、チャクラや音とも深い関係があります。
私が行っているヨガはクンダリーニの行法ではありませんが、仙骨は丹田の真裏にあたります。仙骨に外側から力を加えてしまうと、眠っていた蛇は目醒めるどころか却って動きをロックさせれてしまいます。びっくりして穴に深く逃げ込んでしまうようなものです。
丹田を意識し、自分の内側から少しずつアプローチして行く事でそのエネルギーが目醒めて動き出します。
実際、ヨガのクラスを終えた後、私はたまにオステオパシーの施術を受ける事があるのですけれど、施術担当のNちゃんが、「わ、ゆきさん仙骨のとこだけ異様に熱い!」ってびっくりします。
クラス中も途中でチャイルドポーズの時皆さんの仙骨の辺りに触れると、確実にそこだけ熱くなっている方はよくいらっしゃいますよ。
そのことにこだわる必要はまったくありませんが、確かにこういうことはあるのでしょう。私達は肉体に限られた存在ではないのです。
でも、解剖学的にも身体の使い方的にも、腰をロックしないというのは鉄則ではないですか?
代わりにバンダ(ムーラバンダ、ウディヤーナバンダ)を使う事で重心が安定し、エネルギーに広がりを持たせる事が出来ます。
でもそれって、巷で教えられているような乱暴で男性目線的なものでは決してありませんよ。
女性を動かしたい時、例えばどうしますか?(笑)

そんな風に捉えて、よりたくさんの調和が生まれる一年になるといいなと思っています。
OM

グラミー賞の舞台でキルタンが

http://www.youtube.com/watch?v=5oJf3tgY9yE&feature=player_embedded#!

Krishna Dasがグラミーの舞台に!
キルタンアーティストとしては初の快挙。
受賞こそならなかったようですが、素晴らしい偉業だと思います。
私も実際にキルタンの魅力(というかBhaktiを教えて貰ったのは)KDその人からです。
優しい手、優しいまなざし、優しい声、赤いチェックのシャツ、私の訊ねた言葉に丁寧に丁寧に答えてくれて、随分経った今でもその時の事をありありと思い出します。

キルタン、というと「へ?」と聞き返される事ばかりですが、ヨガをされている人達の間では、少しずつ認知度が上がって来ているようですね。
それでもアメリカに比べたらまだまだ。
実際やっているひとは殆ど居ないし、神様の事を歌ったその言葉自体意味も知られていなくて、 音楽から入る人はインド古典音楽の方に行ってしまうし...(笑)
ヨガと同じで、最初はすごく大層なイメージでしょうが、もっとカジュアルで誰にでも出来る馴染みやすい物です。そのアレンジの仕方も本当に自由で、私もよく自分でキルタンを作曲して歌っていますよ。

http://thebhaktibeat.com/kirtan-first-krishna-das-invokes-narayana-and-yardbirds-at-55th-grammy-awards/

ヨガも10年前にはまだまだ認知度が低かった。
鎌倉にはまだ何にもなかった。
サーフィンと相性がいいとか、スーパーモデルがやっているとか、ダンサーの身体作りとか、入り口は直接的でなくて、やっぱりヨガがメインという人は今でももしかしたらあまり居ないのでは?
今でこそ「ヨガ」という言葉は巷に溢れていますが、まだまだその感性は一部のマイナーなものなのでしょう。でも知れば知る程普遍的ですよね。
同じようにキルタンも10年後にはもっと知られて愛好者が増えているのでしょうか。ミュージシャンとキルタンが出会って、自由な発想で自然に広がっていったらいいなと思っています。
私も歌える機会がたくさんあったら嬉しい。

Go KD! Way to go!!!

キルタンやバクティヨガについてもっと知りたい方は、KDのグル、ニームカロリババについて書かれた
「愛という奇蹟」(Miracle of love) / Ram Das著
を読んでみて下さいね。
OM 

2013年2月7日木曜日

インドのお話「ひび割れた水瓶」

確かこんな話です。

「ひび割れた水瓶」  作者不詳 (インド)

インドのとある小さな村にに水汲みを仕事にする少年がいました。
少年は二つの水瓶を左右の肩にかけ、毎日川から水を汲んで丘の上の屋敷までの長い道のりを運びます。
屋敷に付く頃、右側の水瓶には水がいっぱい入っているのですが、左側の水瓶にはヒビが入っているので、いつも水が半分しか残っていませんでした。
ヒビの入った水瓶は、その事をいつも恥ずかしく惨めに思い、少年にも申し訳なさでいっぱいでした。

そしてある日とうとうひび割れた水瓶は、少年に話しかけました。
 「僕は自分が恥ずかしい。そして君に申し訳ない。僕のひび割れのせいで、君がどんなに努力をしても、その努力が報われる事がない。僕はそれが辛い。」
少年はいいました。
「そんなことない、これからお屋敷に帰るまでの、道端の綺麗な花を見るといい。」

天秤棒にぶら下がり、お日様に照らされながらお屋敷までの丘を登っていく時、ひび割れた水瓶は、道ばたの美しい花々を見つけました。

少年は言いました。
「花はどちら側に咲いていたかい?」
ひび割れた水瓶は答えました。
「左側だよ。」
少年は言いました。
「路の左側だけに花が咲いているのは、君から水がこぼれ落ちたおかけだよ。君は毎日花のために水を撒いていたんだ。お屋敷のご主人も、道端にいつも綺麗に花が咲いているのでとても喜んでいらっしゃるんだよ。僕も毎日綺麗な道のりを歩く事が出来てうれしいよ。どうもありがとう。」


ひび割れた水瓶は、それを聞いてはじめて自分を誇らしく思いました。
まさか自分が少年から感謝されるなんて!!
そしてとても幸せな気持ちになりました。


 人は誰でもコンプレックスがあるもの。
誰かと比べて自分が劣っていると感じたり、自分には欠陥があるのだと惨めな気持ちになったり、人生の中ですごく無駄なことばかりしているなと思ってしまうような時、もしかしたら周りの人はそのことを欠点だとは全然思っていないかもしれません。
むしろそれが良かったり。

世の中完璧で効率の良い立派なものばかりだと、道端に自然に花が咲く事さえなくなってしまいます。その花に蝶が蜜を吸いにやってきたり、その蝶を子供が追いかけたり花輪を作って遊んだり。
 私が進んで行く道の途中には、いつも欠陥だらけの私がとりこぼした何かが散らばっていて、それがまた新しいお話に繋がったらいいのかなと思っています。

ひび割れているからこそ役に立つ事がある。
そうに違いない。
OM


 

2013年2月5日火曜日

Fasting(断食)


そろそろ春のファスティング時期。
食べ物を見ても、むやみに食欲が感化されないあの感覚は、世間のあれこれに惑わされないための良い練習になります。

人が緊張を誤魔化して雄弁に意味のない事を語るとき、大人の都合で関係を続けようとする様々な場面、相手を自分の所有物に貶める結婚生活や親子関係を垣間見たとき、貴方に良い話ですよ、とパッケージされた当人に良い話を聞くとき、一見愛の形に見える執着や甘え、依存などを体感で感じるとき、きちんとそういうものがよりよく見えるようになるからです。



ふーんと思っても、社会の中では飲み込む事も多い事柄を、食べ物を必要なく飲み込む事を少しの間やめる事で、自分がいつの間にか誤魔化して誤魔化されてきた事柄を真っ直ぐ見る事が出来ます。

いつも正しく一定でいることはある意味理想なのでしょうけれど、私にはまだそれはつまらないと感じてしまったり、敢えてふーん、と思いながら試す事、良くはないことを知りながらやってみること、は日常茶飯事です。
悩みやトラブルはそんなところからやってきます。 
でも試してみて相手が揺るがなければ信頼関係に繋がります。
同じ感覚で生きている人とは尊敬しあい、お互いを通して学び合う事が出来ます。
 

春はそういうことを見直す時期。

何の食べ物が自分に合っているのだろう、どういう食餌方法がより自分には向いているのだろうということを探ったり試したりする事や、ダイエット、デトックスもファスティングの意味として否定はしませんが、身体的なものより精神的なそれは、こういう視点で行うと、心の成長に繋がるのかもしれません。 

週に一度は断食を、それが無理なら一食抜こう。自然界には、からっぽな状態というものが必要なのだ。(『ガンディー 魂の言葉』)
OM